2015年5月1日金曜日

四方八方、やれやれ

 やれやれ、と日頃から安倍晋三を見ているうちのひとりにとって、米上下院での彼の演説も、もちろん、「やれやれ」のさらなる堆積の機会ではあった。
だが、ネット界でのこの安倍演説批判をあれこれ見ていると、安倍に対してばかりか、安倍を批判する者たちに対しても「やれやれ」を向けなければならない過酷な現実があるようで、じつにイヤァな気持ちになる。

安倍がCarole Kingの「You've Got A Friend」 を、日米の親密感演出のためだろうが、引用してみたことを非難するポップ・ミュージシャンらしい人の主張など、そのひとつだった。
この人は「安直な想像力と知識で、神聖な音楽の精神を利用することは」やめてほしい、と書いている。ミュージシャンだけあって、この曲には思い入れも強いらしく、安倍にむけて、「あの曲が生まれた時代背景も、音楽家の精神も、まさにあなた方のような利権、覇権、既得権にほくそ笑む政治家の対極にあり、それに対しての純粋なアンチテーゼとして表現された楽曲」だと言っている。
思い入れのつよい楽曲が、気にくわないヤツに好き勝手に捻じ曲げられて利用されたミュージシャンの憤怒…と考えれば、なるほど、とは思う。
このミュージシャンはさらに、「音楽を舐めないでいただきたい。音楽を利用しないでいただきたい。音楽を汚さないでいただきたい。一音楽家として、お願いしますよ」と言い、さらに、皮肉の利いたこんな発言まで披露してくれている。
「あの曲がもたらす先の大戦のムードやメッセージ性、そして『君の友達』というタイトルが、安易に米国民のノスタルジーを伴う共感を得るだろうとしたその稚拙でステレオタイプなセンスのなさと薄っぺらい強引さに、虫唾が走る」。

 もちろん、こう思う人もいるんだろうなァ、と済ましておけばいいわけだが、しかし、これを読みながら、馬鹿か、こいつは、と思わざるをえなかった。
 自分が作ったり書いたりして世に出したモノ、手放したモノは、どのようにも引用され、編集され、歪曲され、作者の意図などおかまいなしに利用され、捏造されうるはずではないか。良し悪しの問題ではなく、これは人間社会におけるモノの宿命なので、どうにもし難い。
そんな当たり前のことを当然の前提として、この表象社会は運動し続けている。安倍のような「You've Got A Friend」の使い方は嫌だなァ、あれじゃ曲の真意がねじ曲がっちゃうよ、と表明する程度まではいいとしても、残念ながら、「音楽を舐めないでいただきたい。音楽を利用しないでいただきたい。音楽を汚さないでいただきたい」などと言ってもなんの効力もない。
「舐め」られ、「利用」され、「汚さ」れるのって、社会の前提でしょ? 
ひょっとして、ミュージシャンという立場を利用して、音楽全般に一定の解釈や利用法を強要するような権力を揮いたいわけ?
まるで、マルクスはこう解釈しないといけない、と力を揮ったソビエト共産党みたいに?
 引用論やデリダの散種論まで持ち出して論破しなくてもいいだろうが、そこまで言っちゃァ、あなた、理屈がトンデモだよ、ということになってしまう。
だいたい、ミュージシャンとかいうが、大衆の通俗感性に媚びて大枚を稼ごうとする低レベル音楽の輩で、自分では社会批判とか抵抗とかを気取っているものの、ようするに著作権をフルに主張してノサバろうとしている俗謡屋だろう?…などと、うっかり思ってしまいそうにもなるが、…まァ、蓼喰う虫も好き好きなので、そこまでは言わないようにしておかねば。世の中にはフォークソングやポップスを芸術や社会正義の極致だと称える輩も無数にいるもので、それはそれでご自由に、としか言いようはないのだから。
 この人の文に対する賛同のコメントがまた、「クズのクズ」とか「クソ」だとか「浅薄」などと安倍を口汚く罵ったり、「音楽に対する冒涜」だとか、「大切なものを汚された」とか、「虫唾が走る」とか、「吐き気」がするとかいうふうで、こちらこそ、言葉「を舐めないでいただきたい」とか、表現「を汚さないでいただきたい」などとうっかり思ってしまいそうな、いかにも高所からの上から目線、見下し目線いっぱいのコトバが、これでもかとばかりにズラッと並んでいる。
 そうしたコトバの羅列が、いかにもイヤァな眺めなのであった。
やれやれ。
いや、やれやれでは済まない。まるで、自分たちこそ正しい側、時代の正義、新たなるファシズムに対抗するレジスタンス、とでも信じ込んでいるような姿が、まことにイヤァな眺めなのである。
この眺めに連なる人々と同じコトバは吐きたくないものの、心のどこかに「吐き気」が湧いてくるような感じはあった。
 
 この「吐き気」を宥めようとしていると、少し前に経験したことを思い出した。やはり音楽家関連で、用事があって毎月会っている、そろそろ老齢に入りつつあるプロのピアニストから言われた言葉に関わる。
 話が音楽関連のことに流れ、こちらもクラシックは大好きなものだから、いろいろと話が弾んでいた最中、ショパンのバラード第4番のことに及んだ。それをコンサートホールに聴きに行った妻が、とても素直な感じの演奏で、それがとてもよかった、と言っていたので、
「バラ4(ヨン)も弾いたんでしたよね。よかった、って言ってました」
と伝えたら、ピアニストは急に憤慨したようになった。
「そんな、『バラ4』なんて言わないでほしいわ。そんなふうに略称にして…、音楽への敬意がまったくない感じだわ」
「まぁ、バラ4だけでなく、ショスタ(ショスタコーヴィチ)とか、ラフマ(ラフマニノフ)とかね、モツレク(モーツァルト『レクイエム』)とか、どれも音大生たちの定番の呼び方でしょう?
と私は答えた。
「僕には親しい音大生たちがいたから、さんざんこの呼び名を聞かされてきたんですよ。僕自身はこんな呼び方はしないのだけど、あなたが音楽家だから、いま、使ってみただけです」
 ピアニストは、
「自分が教えている音大生たちもそう呼んでいて、聞くたびに腹立たしくなるわ。音楽に敬意を払っていない感じだし、だいたい、音楽に打ち込んでいない人たちに、こんな呼び方をしてもらいたくない」
といったような話を長々と続けた。
おそらく、音大生が彼女に「バラ4」と言ったのなら、まだまだ許されたのだろう。音楽家でもない私が口にしたところに、たぶん、問題はあった。門外漢が、業界用語というか、通り言葉というか、陰語というか、それをペラッと口にしたものだから、自分の領分を侵された気になったに違いない。
口では言わなかったものの、
(やれやれ。あんた、音楽を独占したいだけだろ? 自分たちこそが、自分たちだけが音楽を知っていて、それ以外の人間たちには境界線を越えさせまいとしたい。それだろ、本音は?)
心の中ではこう思って、私はピアニストを見つめたが、こんな経験は、むろん初めてではない。毎週のようにどこかで経験することで、どこの領域の人間も見せつけてくる類のものだ。ヒト科の生物の、抜きがたき縄張り根性、既得権益死守本能である。

 安倍の「You've Got A Friend」使用を批判するミュージシャンに対しても、ミュージシャンならざる私としては、似たような感慨を持ったといえる。非ミュージシャンとして、私と安倍、あるいは安倍の演説を書いたライターとの間に予想外の連帯感が生じたわけで、なにくそ通俗ミュージシャンめが…、ともなりかねないような感情が芽生えそうになったわけだ。
 
 話をひとつ加えておく。
 妻が仕事でインタヴューしたばかりの高齢の有名な女流作家が、話のなりゆき上、インタヴューのテーマからちょっと離れた際に、
「安倍さんだって、いろいろと大変だと思いますよ。私たちは戦争を経験してきた世代で、もちろん戦争反対だけど、いま、問題になっている憲法の改正とか軍備の問題とか、反対していれば済むというものじゃないと私は思いますけどね。原発だって、本当に全部なくしていいんですか。市井の人間でなくて、国際政治のパワーのぶつかり合う中で、何年も何十年も先のことまで考えながら国の政治のトップに立っていなければいけない人が、原発は即時全廃って、言えるんですか。言いたくても、彼が言えると思いますか」
 こんな内容のことを話した、という。
 ふふぅん、と私は思った。
 私はこの女流作家に全く興味がないし、むしろ、くだらないものばかり書いてきて…と思っているぐらいだが、ははァ、こいつは作家精神だナ、と思った。
端的に言えば、世間の良識派らしき連中にこそ抵抗する、とりわけ、良識派や正義派を気取る連中からは画然と距離をとる、という姿勢である。体制側にはもちろんつかないが、群れを成す良識派や正義派連中にもつかない。知識人の側にもつかない。大学人の側にもつかない。誰のことも褒めない。孤立無援など、あたり前。どうせ死ぬ時はひとりサ、だから、言いたいことを言わせてもらうヨ。空気なんて、絶対、読んじゃァやらないヨ、と。
 歌人たちや詩人たちが、つまらない自分たちの作物をチマチマ褒めあって、仲良しクラブやお達者クラブよろしくケチな飲み会を延々とやっているのを、私はさんざん見てきた。大学のセンセたちも同じことだ。専門だの学問だのというが、ナニ、所詮オタクの集まりに過ぎないのに、自分たちをよほどのナニモノかであるとでも思い込んで偉がっている。
 小説家たちというのは違っている。
 文学者たちを呼んでの講演会の企画や運営を任されていた頃、他のジャンルの文学者と違って、小説家たちは本当に一筋縄ではいかないのを痛感した。打ち合わせや打ち上げの場で、いろいろな場面に遭遇したものだ。文学界では名の知れた批評家や研究者たちに、
「所詮、あなたたちは実際に書いてないものね。安全圏にいて、わかったふうなことを言ってるだけよね。小説を書いて、世間に見せて、ボコボコに言われたり無視されたりしてないんだものね。私はそれをしているのよ。とりあえずは小説をちゃんと書いて、新人賞でも取ってから、ものを言ったら?」
と言い放った女流作家も面前で見ていたし、今は何本も作品が映画化されている別の女流作家は、気取り屋できわめて気難しいことで有名な初対面の教授に、
「ねえ、先生、最近はどんなセックスしているの?それとも、し・て・な・い・のぉ?」
と、飲み会の席で、八人ほどのいる前でズバリと質問した。これは、どんな答え方をしても、教授の性生活や性意識がくっきりと露呈することになる見事な鋭い質問で、あらゆる人間を先ずは性の局面から観察し分析して素材としておくのを基本作業とする小説家ならではである。レミ・ド・グールモンは「あらゆる性的逸脱行為のなかで、おそらくもっとも特異なのは貞節であろう」と看破したが、性においては、じつに、すべてのあり方が異常である。白髪におだやかな知性を漂わせる老紳士が、休日、洒落た高雅なレストランで娘たちや奥方と食事をしているのを見たりすると、彼がその昔、奥方とイタシていた時のことを小説家は深く深く思い見てしまわずにはおれない。息子を持ち、娘を持つ。奥方と連れだって、どこそこへ出向く。あゝ、なんと淫らで、猥褻なことか、と嘆かわしくなるではないか。老紳士の股間にかつて屹立したアレが、また、そのアレをパックリと受け入れた奥方の若かりし頃のソレが、めにゃめにゃ、ぐちゃぐちゃと、小説家には見えて見えてしょうがないはずなのである。そもそも、ヒトがひとり其処にいるというだけで、そのヒトの父母にあたるオス・メスの交尾があったわけであり、射精があったわけであり、性的エクスタシーがあったわけであり、そこらの愚劣な映画がさんざんぱら見せつけようとし続ける男女のニャンニャン場面がふんだんにくり返されたはずなのである。遡れば、さらには祖父母たちの、曾祖父母たちの、無限の遠ざかりの中の無数のご先祖たちの…アレやソレをフルに使っての、まァ、ご苦労サマなそれらあれらも当然あったわけである。なんと、社会とは、国家とは、都市とは、町や村や集落とは、あまりといえばあまりに猥褻きわまるもので、一刻も早くその存在が禁止され消滅させられるべきものではないか
目の前で見た小説家の一例に話を戻すが、誰にもまして融通無碍な振舞いをするタイプだった或る芥川賞作家などは、夫が裕福なおかげもあって精力的に自費出版していた女性詩人から詩集を贈呈された際、初対面というのに、
「へえ、 シジンなの? シジンって、『死ぬ』のシの、あのシジンだよねえ。死ジンかぁ…。死ジンの死集ねぇ…」
とたっぷり毒づいて見せてもいた。
 
 頭の先から足の先までどころか、糞やショウベンに到るまで遍くねじまがって、偏屈で、反抗的な小説家たちの精神が、このところ、歴然と薄まってしまっている感じがする。これも時代というやつか。小説家的な底なし全方位の批難精神旺盛な時代なら、安倍ごときはとてもあの位置には居続けられていないだろうが、ミュージシャンごときが知ったふうなオダを上げて、音楽占有を見せつけたりすることも、やはり易々とはできはしなかったはずだ。
 小説家精神をよく表す言葉をもうひとつ思い出したので、記し添えておく。ロベール・ブリアットがポール・ボウルズについて語った言葉だ。曰く、
「心の奥底ではすべてを丸ごと拒絶しながら、うわべは受け入れるふりをするという戦略」。*


 *『ポール・ボウルズ伝』(ロベール・ブリアット、谷昌親訳、白水社、1994
                               

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