やれやれ、と日頃から安倍晋三を見ているうちのひとりにとって、 米上下院での彼の演説も、もちろん、「やれやれ」 のさらなる堆積の機会ではあった。
だが、ネット界でのこの安倍演説批判をあれこれ見ていると、 安倍に対してばかりか、安倍を批判する者たちに対しても「 やれやれ」を向けなければならない過酷な現実があるようで、 じつにイヤァな気持ちになる。
安倍がCarole Kingの「You've Got A Friend」 を、日米の親密感演出のためだろうが、 引用してみたことを非難するポップ・ ミュージシャンらしい人の主張など、そのひとつだった。
この人は「安直な想像力と知識で、 神聖な音楽の精神を利用することは」やめてほしい、 と書いている。ミュージシャンだけあって、 この曲には思い入れも強いらしく、安倍にむけて、「 あの曲が生まれた時代背景も、音楽家の精神も、 まさにあなた方のような利権、覇権、 既得権にほくそ笑む政治家の対極にあり、 それに対しての純粋なアンチテーゼとして表現された楽曲」 だと言っている。
思い入れのつよい楽曲が、 気にくわないヤツに好き勝手に捻じ曲げられて利用されたミュージ シャンの憤怒…と考えれば、なるほど、とは思う。
このミュージシャンはさらに、「音楽を舐めないでいただきたい。 音楽を利用しないでいただきたい。 音楽を汚さないでいただきたい。一音楽家として、 お願いしますよ」と言い、さらに、 皮肉の利いたこんな発言まで披露してくれている。
「あの曲がもたらす先の大戦のムードやメッセージ性、そして『もちろん、こう思う人もいるんだろうなァ、
自分が作ったり書いたりして世に出したモノ、手放したモノは、
そんな当たり前のことを当然の前提として、 この表象社会は運動し続けている。安倍のような「You've Got A Friend」の使い方は嫌だなァ、 あれじゃ曲の真意がねじ曲がっちゃうよ、 と表明する程度まではいいとしても、残念ながら、「音楽を舐めな いでいただきたい。音楽を利用しないでいただきたい。 音楽を汚さないでいただきたい」 などと言ってもなんの効力もない。
「舐め」られ、「利用」され、「汚さ」れるのって、
ひょっとして、ミュージシャンという立場を利用して、 音楽全般に一定の解釈や利用法を強要するような権力を揮いたいわ け?
まるで、マルクスはこう解釈しないといけない、 と力を揮ったソビエト共産党みたいに?
引用論やデリダの散種論まで持ち出して論破しなくてもいいだろう
だいたい、ミュージシャンとかいうが、 大衆の通俗感性に媚びて大枚を稼ごうとする低レベル音楽の輩で、 自分では社会批判とか抵抗とかを気取っているものの、 ようするに著作権をフルに主張してノサバろうとしている俗謡屋だ ろう?…などと、うっかり思ってしまいそうにもなるが、…まァ、 蓼喰う虫も好き好きなので、 そこまでは言わないようにしておかねば。 世の中にはフォークソングやポップスを芸術や社会正義の極致だと 称える輩も無数にいるもので、それはそれでご自由に、 としか言いようはないのだから。
この人の文に対する賛同のコメントがまた、「クズのクズ」とか「そうしたコトバの羅列が、いかにもイヤァな眺めなのであった。
やれやれ。
いや、やれやれでは済まない。まるで、自分たちこそ正しい側、 時代の正義、新たなるファシズムに対抗するレジスタンス、 とでも信じ込んでいるような姿が、 まことにイヤァな眺めなのである。
この眺めに連なる人々と同じコトバは吐きたくないものの、 心のどこかに「吐き気」が湧いてくるような感じはあった。
この「吐き気」を宥めようとしていると、
話が音楽関連のことに流れ、
「バラ4(ヨン)も弾いたんでしたよね。よかった、
と伝えたら、ピアニストは急に憤慨したようになった。
「そんな、『バラ4』なんて言わないでほしいわ。「まぁ、バラ4だけでなく、ショスタ(ショスタコーヴィチ)
と私は答えた。
「僕には親しい音大生たちがいたから、ピアニストは、
「自分が教えている音大生たちもそう呼んでいて、
といったような話を長々と続けた。
おそらく、音大生が彼女に「バラ4」と言ったのなら、 まだまだ許されたのだろう。 音楽家でもない私が口にしたところに、たぶん、問題はあった。 門外漢が、業界用語というか、通り言葉というか、陰語というか、 それをペラッと口にしたものだから、 自分の領分を侵された気になったに違いない。
口では言わなかったものの、
(やれやれ。あんた、音楽を独占したいだけだろ? 自分たちこそが、自分たちだけが音楽を知っていて、
心の中ではこう思って、私はピアニストを見つめたが、 こんな経験は、むろん初めてではない。 毎週のようにどこかで経験することで、 どこの領域の人間も見せつけてくる類のものだ。ヒト科の生物の、 抜きがたき縄張り根性、既得権益死守本能である。
安倍の「You've Got A Friend」使用を批判するミュージシャンに対しても、
話をひとつ加えておく。
妻が仕事でインタヴューしたばかりの高齢の有名な女流作家が、
「安倍さんだって、いろいろと大変だと思いますよ。
こんな内容のことを話した、という。
ふふぅん、と私は思った。
私はこの女流作家に全く興味がないし、むしろ、
端的に言えば、世間の良識派らしき連中にこそ抵抗する、 とりわけ、良識派や正義派を気取る連中からは画然と距離をとる、 という姿勢である。体制側にはもちろんつかないが、 群れを成す良識派や正義派連中にもつかない。 知識人の側にもつかない。大学人の側にもつかない。 誰のことも褒めない。孤立無援など、あたり前。 どうせ死ぬ時はひとりサ、だから、 言いたいことを言わせてもらうヨ。空気なんて、絶対、 読んじゃァやらないヨ、と。
歌人たちや詩人たちが、小説家たちというのは違っている。
文学者たちを呼んでの講演会の企画や運営を任されていた頃、
「所詮、あなたたちは実際に書いてないものね。安全圏にいて、
と言い放った女流作家も面前で見ていたし、 今は何本も作品が映画化されている別の女流作家は、 気取り屋できわめて気難しいことで有名な初対面の教授に、
「ねえ、先生、最近はどんなセックスしているの?それとも、し・
と、飲み会の席で、八人ほどのいる前でズバリと質問した。 これは、どんな答え方をしても、 教授の性生活や性意識がくっきりと露呈することになる見事な鋭い 質問で、 あらゆる人間を先ずは性の局面から観察し分析して素材としておく のを基本作業とする小説家ならではである。レミ・ド・ グールモンは「あらゆる性的逸脱行為のなかで、 おそらくもっとも特異なのは貞節であろう」と看破したが、 性においては、じつに、すべてのあり方が異常である。 白髪におだやかな知性を漂わせる老紳士が、休日、 洒落た高雅なレストランで娘たちや奥方と食事をしているのを見た りすると、彼がその昔、 奥方とイタシていた時のことを小説家は深く深く思い見てしまわず にはおれない。息子を持ち、娘を持つ。奥方と連れだって、 どこそこへ出向く。あゝ、なんと淫らで、猥褻なことか、 と嘆かわしくなるではないか。 老紳士の股間にかつて屹立したアレが、また、 そのアレをパックリと受け入れた奥方の若かりし頃のソレが、 めにゃめにゃ、ぐちゃぐちゃと、 小説家には見えて見えてしょうがないはずなのである。そもそも、 ヒトがひとり其処にいるというだけで、 そのヒトの父母にあたるオス・メスの交尾があったわけであり、 射精があったわけであり、性的エクスタシーがあったわけであり、 そこらの愚劣な映画がさんざんぱら見せつけようとし続ける男女の ニャンニャン場面がふんだんにくり返されたはずなのである。 遡れば、さらには祖父母たちの、曾祖父母たちの、 無限の遠ざかりの中の無数のご先祖たちの… アレやソレをフルに使っての、まァ、 ご苦労サマなそれらあれらも当然あったわけである。なんと、 社会とは、国家とは、都市とは、町や村や集落とは、 あまりといえばあまりに猥褻きわまるもので、 一刻も早くその存在が禁止され消滅させられるべきものではないか 。
目の前で見た小説家の一例に話を戻すが、 誰にもまして融通無碍な振舞いをするタイプだった或る芥川賞作家 などは、 夫が裕福なおかげもあって精力的に自費出版していた女性詩人から 詩集を贈呈された際、初対面というのに、
「へえ、 シジンなの? シジンって、『死ぬ』のシの、あのシジンだよねえ。死ジンかぁ…
とたっぷり毒づいて見せてもいた。
頭の先から足の先までどころか、
小説家精神をよく表す言葉をもうひとつ思い出したので、
「心の奥底ではすべてを丸ごと拒絶しながら、
*『ポール・ボウルズ伝』(ロベール・ブリアット、谷昌親訳、
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