2015年4月3日金曜日

夢は単なる夢ではない


  夢は、目覚めている間の経験や情報の整理過程であるともいわれるし、深層心理の湧出であるともいわれる。そういう種類の夢は確かにあるだろうが、少なくとも、それらだけに限られない夢体験を私は何度もしている。夢においては、私はかなり実地で、「夢は第二の人生である*と『オーレリアAurélia』に書いたジェラール・ド・ネルヴァルGérard de Nervalに近い。

 最近のことを言えば、夢の中で、よくフランス女性に会う。何度も会うのだ。
少し四角い顔で、黒く見える長い髪をしていて、こちらの現世の世界、現実界では、出会ったことがない。いつも濃いブルーの服を着ていて、それはワンピースに見えるが、スーツかもしれない。その上にタペストリー風のやや太い白い模様が走っていて、イタリアのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドゥオモ外壁にあるような印象の装飾になっている。
 今朝の夢ではこうである。
朝方、彼女の職場の庭に出ている椅子に坐って、目を瞑って空を向いていたら、いつのまにか彼女がやってきて、私の頭や顔に手をまわしてきた。その手を握り、挨拶をし、彼女を見つめると、少し四角いいつも通りの顔と黒っぽい髪が見える。
そうしながら、どうやら自分はこの女性を好きになり始めていると思い、「きみを愛し始めているよ」
と口にしそうになるが、まだやめておこうと思い、止める。
一度だけたまたま見たというなら、なるほどたゞの夢に過ぎないが、現実界では会ったこともない人に夢でたびたび会うとなると、たゞの夢ではないということも考えてみなければならなくなる。あるいは、夢に、ふだん思っているようなものとは異なった側面がある、と推測してみなければならなくなる。
私の場合は昔からこうで、夢は単なる夢ではないという経験を重ねてきたため、夢を機械的に論じるだけの心理学者は端から信じない。彼らの説くような夢もあるにはあるし、そういう夢も私はもちろん体験している。しかし、それを超えた、あるいは、それを逸れた、現実そのものとしての夢、ないしは現実の予兆としての夢を複数回体験してきている。たゞ見た、というだけでなく、それによって人生そのものの方向を変えた経験さえしてきた。

私の今回の人生は、5年前に亡くなったフランス女性との30年に及ぶ交流によって著しい特徴が付けられている。今回の転生において、同時並行の複層的な生を進めた私の人生は、彼女との交流や生活だけによって色付けされているわけではないものの、日本にいながら同時代の日本を全く離れて彼女と生きていたので、それらの年月の比重は大きい。
このフランス女性と突然の深い交流に入る時にも、夢があった。
この場合は、夢というより、ふつうの覚醒意識と違う、目覚め間際の意識状態、とでもいう言い方をしたほうがいいかもしれない。 
眠りから目覚める瞬間に、男の声で、「○○○に電話しろ」とはっきりした命令がくり返し聞こえたのだ。
○○○というのは彼女の名だが、数年前に知りあってはいたものの、全く連絡も取りあっていなかった。遠い関わり、というより、ほぼ関わりがなかった。そんな相手に「電話しろ」と、強く、あまりにはっきりと、誰とも知れぬ声に言われたのだった。
数年前の手帖のページにメモしてあった彼女の電話番号を見つけ、その日のうちに電話してみた。「ヘンな話ですけれど、目覚め際に、あなたに電話しろ、と強く言われたんです…」という、まことに奇妙な弁明から始めなければならなかった。さいわい、彼女のほうも、こうしたヘンな話を好む性質だったので、それではちょっと話しましょうか、ということになった。

ちなみに、最近の夢でよく会うフランス女性は、亡くなった彼女ではない。風体も雰囲気もまったく違っている。
亡くなった彼女のほうは、これも時どき夢に出てくるが、死んだという雰囲気はまったくなく、当たり前のようにむこう側の世界で暮らしている。夢の中の私は、彼女を前にしながら、「この人は死んだのだ」とわかってはいるのだが、そんなことも遠い昔にはあった…といった思い方をしている雰囲気がある。
  

* « Le rêve est une seconde vie. » 

 

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