2015年4月1日水曜日

人はいつ、桜から気持ちを“外し”始めるのか



  人は、いつ桜を見るのをやめるのだろう。

 3月から4月、見頃になってきた、満開だ、まだもちそうだ、…などと気もそぞろに桜を意識して日本人は日を送るが、どの時点で、桜へのそんな気持ちを“外し”始めるのだろう。
 花が散ってしまえば楽なもので、もちろん、もう桜を意識しなくなる。だが、散り切ってしまうもう少し前の時点で、ひとりひとり各様ながら、どのように、だんだんと桜から気持ちを“外し”始めるのか。落ち着いて仕事に打ち込む心境に、どのように移動していくのか。
 こんなことを、いつも、満開を過ぎ始める頃に思う。日本中で心のドラマが起こっているのだろうな、と思う。

 いうまでもないことだが、勅撰集の時代、桜をめぐっては、開花を待つ気持ちから始まって、満開頃はもちろん、散り出す時期、豪勢に散っている時期、散り切った後の時期まで、それぞれが作歌のテーマとなっていた。新古今などではそうした扱いが顕著で、 
     散りまがふ花のよそ目は吉野山あらしにさわぐ峰の白雲
などと、散っている最中を活写したものもあれば、
  ふるさとの花の盛りは過ぎぬれど面影さらぬ春の空かな
と、じかに盛りの果てを扱うものも並ぶ。
  尋ねつる花もわが身もおとろへてのちの春ともえこそ契らね
  散りにけりあはれ恨みのたれなれば花のあと問ふ春の山風
などと、架空の恋物語に寄せ、恨みがましくツレナい相手に当てつけて歌うものもあり、そうしているうちに、テーマ的には忙しい春の終わりから夏のはじまりのこと、いっそう明るい印象の山吹や藤波の歌へと移っていく。
 桜の咲きぐあいの変化、それにあわせての心情の変化は、古来、春が来るたびに問題とされてきたわけで、いつ桜から気持ちを“外す”のかも、長いことずっと演じられてきた心のドラマだったといえる。

 今住んでいる家の居間からは、大きな、ちょうど壮年に入る頃という感じの桜の木が目の前に見えて、満開に達した後でも、気持ちを“外す”べくもなく、日々、見続けさせられる。
満開時は圧倒的な景観だが、散り出してからが、また面白い。
桜の花びらが散っていくさまは、自然界のものの中でもひときわ動的で、満開時よりもたぶんドラマチックである。
散り切ってしまうまで、家の居間からその光景が見続けられる。
本を読んだりなにか作業をしたりしようと思ってテーブルについたまま、散花を見続けてしまっていることがある。
ただ桜の散るのを見ようと思って、コーヒーを淹れたり茶を淹れたりして、座ってみていることもある。一時間も二時間も見続ける。
寝室からも見えるので、休みの日中にごろんと寝転がって、ひっきりなしに飛び散っていく花びらを見続けたりもする。
 家から出て、裏に30秒もいけば隅田川の整備された桜並木で、散る頃の風景ときたら、これはほとんど壮絶というべきものがある。ここに越してきてから、都内の桜の名所にはほとんどいかなくなってしまったが、人出もなく、騒がしくもないマイ名所の中に住んでいればこそ、ということになる。
晴れて青空の美しい日など、他所の名所に桜を見に出かけたりすれば、家のまわりの桜のその日の光景を見逃してしまう。家を離れるのがもったいない。ここに居るかぎりは、ここの桜を優先したい、と考える。
こと桜に関しては、もう、至上の幸福ということを実現してしまったな、と満足し切っている。なにがあるかわからないこの世では、家のまわりの圧倒的な桜花の光景は、毎春、冥土の土産そのものとも映る。

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