人は、いつ桜を見るのをやめるのだろう。
3月から4月、見頃になってきた、満開だ、まだもちそうだ、… などと気もそぞろに桜を意識して日本人は日を送るが、 どの時点で、桜へのそんな気持ちを“外し”始めるのだろう。
花が散ってしまえば楽なもので、もちろん、 もう桜を意識しなくなる。だが、 散り切ってしまうもう少し前の時点で、ひとりひとり各様ながら、 どのように、だんだんと桜から気持ちを“外し”始めるのか。 落ち着いて仕事に打ち込む心境に、どのように移動していくのか。
こんなことを、いつも、満開を過ぎ始める頃に思う。 日本中で心のドラマが起こっているのだろうな、と思う。
いうまでもないことだが、勅撰集の時代、桜をめぐっては、 開花を待つ気持ちから始まって、満開頃はもちろん、 散り出す時期、豪勢に散っている時期、散り切った後の時期まで、 それぞれが作歌のテーマとなっていた。 新古今などではそうした扱いが顕著で、
散りまがふ花のよそ目は吉野山あらしにさわぐ峰の白雲
などと、散っている最中を活写したものもあれば、
ふるさとの花の盛りは過ぎぬれど面影さらぬ春の空かな
と、じかに盛りの果てを扱うものも並ぶ。
尋ねつる花もわが身もおとろへてのちの春ともえこそ契らね
散りにけりあはれ恨みのたれなれば花のあと問ふ春の山風
などと、架空の恋物語に寄せ、 恨みがましくツレナい相手に当てつけて歌うものもあり、 そうしているうちに、 テーマ的には忙しい春の終わりから夏のはじまりのこと、 いっそう明るい印象の山吹や藤波の歌へと移っていく。
桜の咲きぐあいの変化、それにあわせての心情の変化は、古来、 春が来るたびに問題とされてきたわけで、いつ桜から気持ちを“ 外す”のかも、 長いことずっと演じられてきた心のドラマだったといえる。
今住んでいる家の居間からは、大きな、 ちょうど壮年に入る頃という感じの桜の木が目の前に見えて、 満開に達した後でも、気持ちを“外す”べくもなく、日々、 見続けさせられる。
満開時は圧倒的な景観だが、散り出してからが、また面白い。
桜の花びらが散っていくさまは、 自然界のものの中でもひときわ動的で、 満開時よりもたぶんドラマチックである。
散り切ってしまうまで、家の居間からその光景が見続けられる。
本を読んだりなにか作業をしたりしようと思ってテーブルについた まま、散花を見続けてしまっていることがある。
ただ桜の散るのを見ようと思って、 コーヒーを淹れたり茶を淹れたりして、 座ってみていることもある。一時間も二時間も見続ける。
寝室からも見えるので、休みの日中にごろんと寝転がって、 ひっきりなしに飛び散っていく花びらを見続けたりもする。
家から出て、裏に30秒もいけば隅田川の整備された桜並木で、 散る頃の風景ときたら、 これはほとんど壮絶というべきものがある。 ここに越してきてから、 都内の桜の名所にはほとんどいかなくなってしまったが、 人出もなく、騒がしくもないマイ名所の中に住んでいればこそ、 ということになる。
晴れて青空の美しい日など、 他所の名所に桜を見に出かけたりすれば、 家のまわりの桜のその日の光景を見逃してしまう。 家を離れるのがもったいない。ここに居るかぎりは、 ここの桜を優先したい、と考える。
こと桜に関しては、もう、 至上の幸福ということを実現してしまったな、 と満足し切っている。なにがあるかわからないこの世では、 家のまわりの圧倒的な桜花の光景は、毎春、 冥土の土産そのものとも映る。
0 件のコメント:
コメントを投稿