2015年4月1日水曜日

コーヒーメーカーを手放す


 古いがほとんど使っていない、きれいなコーヒーメーカーを古物屋に持って行こう、と思い立った話を続ける。

 思い立った日の夕暮れ、器具の埃を払い、水洗いし、ピカピカにして、箱もきれいに拭い、保証書もちゃんと添えて、早々に持って出た。
 重いものを提げていくのは億劫だなァと思いながら、小さくはない箱をトートバッグに入れて出たら、あっけに取られるほど軽かった。こんなに軽かったっけ、と驚く。
保証書には、購入した店の印が押されていて、モルティブと書いてあった。下北沢南口商店街にあるコーヒー店で、代田住まいの頃、ここで時どきコーヒー豆を買った。住まいの近くに書斎を借りた時、コーヒーメーカーを置こうと思って、ここで買って帰ったわけだが、その時も、ずいぶん軽いなァと思いながら、15分ほどある帰路を辿ったかもしれない。
家から7分ほど行った商店街に古物屋が数件ある。きれいなコーヒーメーカーなんですけど、と見せたが、最初の二件に断られた。理由はふたつ。うちは電化製品は5年以内のものしか扱いません。それに、コーヒーメーカーは売れないから…
そうなると捨てる他ないから、べつにお金もいらないし、どうです、とにかくきれいな品だから、と聞いたが、どうしてもダメだという。
少し離れたいちばん見栄えの悪い店に行ってみて、ようやく引き取ってもらった。
そこでも、なかなか引き取ろうとしてくれず、二三回使っただけで仕舞い込んだものだと言うと、じゃあ、ダメだ、完全に新品じゃないと、と渋る。でも、新品並みにきれいなんだけどなァ、と押しても、最近はバリスタとかが出ちゃってるから、コーヒーメーカーは売れないんだよ、と突っぱねる。
そうかァ、じゃあ、しょうがないや、とバッグに入れ直そうとすると、店主は急にズボンの尻ポケットから財布を出して、これでいいなら、と硬貨を出してきた。
200円である。
せっかく持って来てくれたんだし、と言って、引き取ってくれた。
なかなか売れないとは言いながら、それでも数倍で売れるかもしれないと踏んだのだろう。箱から出しさえすれば新品同然に見えるから、ひょっとして、1000円や2000円ぐらいで買っていく酔狂な人もいないとも限らない。店主は、歳がだいぶ行っているらしいのに茶髪にして、生え際に白髪が目立つトッポい老兄チャンふうだが、商売には目敏いはずだ。彼としては、ひょっとして、うまくやったつもりでいるのかもしれない。
ところが、ところが。
この店でダメなら、こちらは本当に捨てるつもりだったのだから、大助かり。ありがとうございます、という声を背に受けながら、せいせいした気分で店を出た。
200円にしかならなくてもいいのだ。
たしか、買った時は4000円ぐらいしたはずだが、23年ほど経つうち、4000円分などすっかり蒸発してしまったのだろう。200円でも戻ってくるだけ、驚きではないか。きれいなままのものを燃えないゴミに出す不愉快さを味わわないで済むのだから、こちらのほうこそ、ありがとうございます、なのだ。
古物屋でなにが売れやすく、なにが売れづらいか。いくらかそれがわかったのもよかった。
家に残っている、ちょっと壊れた個所のあるエスプレッソマシンなどは、とてもではないが売れないだろう。なんの問題もなく見られるシャープの小型の液晶テレビAQUOSも売りたいが、2001年型なので、これもムリだろう。店に持って行く手間が省けるというものだ。
古くてもきれいで立派に使えるものが、ただ古いというだけでこれほど他人の手に届きづらくなる。それを思うと少し寂しいが、今の日本はこういう社会なのだ。庶民の可処分所得が少なくても、モノだけは溢れ返っている。

手ぶらになって商店街を歩きながら、コーヒーメーカーを買った頃のことを思い出そうとしてみた。
8種類以上の様々な仕事を忙しくひと抱えに継続しながら、さらに新たな段階に入ろうとしていた特別な時期で、書斎に、机や書棚などの他、冷蔵庫やオーブンや台所用品一式も備えた。コーヒーメーカーもそのうちの装備のひとつだった。
過去を思い出させるものを手放すのに、昔なら、少し感傷的になったかもしれない。
ある時期から、回顧するためのスイッチとしてモノを用いるのをやめ、記憶そのものだけをスイッチにすることにしたので、今は、たいていのモノを手放すのに拘泥しなくなりつつある。
今回はめでたくコーヒーメーカーを手放したが、それを買った頃のことは丸ごと記憶している。
丸ごと、体と頭の中にあり続けている。
月8万7千円の賃料を払っての書斎のキッチンに、コーヒーメーカーを置いた情景も覚えている。まわりに何があって、冷蔵庫との距離はどのくらいで、ユニットバスがすぐ前にあって、などという配置も、すぐに手に触れられるぐらいに覚え込んでいる。


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