2015年5月18日月曜日

高崎まで

絣紬の人間国宝・佐々木苑子展を見に、生まれて初めて群馬県の高崎まで行ってきた。
駅前に立つや、「あ、この地、いい感じ」と嬉しくなる。
駅周辺に面白い光景が広がるわけでもないが、なにかはっきり“いい感じ”なのだ。大地から出てくる波動のようなものの良さだろうか。
  美術館のある《群馬の森》もたっぷりひろびろ、青々として気持ちいい。美術館にはブルーデルもザッキンもあって。

 紬の展覧会そのものは、もちろん圧倒的。
 その道を追求しているわけでもないのに、日本の染色や織りの基本をもっと知りたいと思い、本まで買ったほど。佐々木苑子の仕事風景を映したDVDも、ずいぶん値が張るのに買い込んだ。
もちろん、織りや染織そのものの研究のためではない。文様の扱い、縦糸と横糸の染めの構造などが、こちらの頭をつねに領している文学テキスト研究にもう少し支えるのではないか、と思って。
構造主義批評やフォルマリズム批評を必死に追っていた頃、小説素や詩素という概念で人間が織る全テキストを分析・解釈できると思った。もちろん、文学批評研究者はだれもが同じことを思うが、こういう科学主義を文学に使い過ぎると、先に待っているのは文学の本質を逸れた分析ゴッコという愚行だけとなる。ロラン・バルトがはやばやと、「快楽」という概念を持ち出して、この方向を遮断してくれていたものだが。

帰路のタクシーの運ちゃんと話が弾む。道路脇の麦畑は、あとひと月もすれば黄金色になって麦秋を迎える、と。
 安永蕗子にこんな歌があったナ。
「麦秋の村すぎしかばほのかなる火の匂ひする旅のはじめに」
 見渡すかぎり小麦色に畑が染まる頃、小旅のそぞろ歩きなんか楽しいだろう。
麦は枯れ切ってから刈るのだそうな。麦刈りの後に稲苗を植えるので、このあたりは日本でも最も遅い稲作地だという。
農家をやっているというこの運ちゃん、家でも麦を作っているそうだが、麦の地粉で作ったこの地域のうどんを自慢する。地粉は茶色みを帯び、それで作ったうどんも薄く茶色みがかる。地粉は決まった会社と契約して限定量のみ生産するので、他県には出さない。じゃあ、土産に地粉のうどんを買って帰るか、と決める。
ここぞとばかり土地の話を聞き出そうとする他所者に、「オレは、オレは」と言いながら、いろいろ話してくれる運ちゃんも珍しい。自転車も前に進まなくなるほど激しい上州の空っ風のことや、名物の雷や。それらも、温暖化のせいか、近年は弱まったという。
「竜巻なんかは?」
「竜巻は、ここらはあまりないね。あれは館林のほう」

  麦がよく取れるからだろう、高崎はスパゲティーも名物。地元で知られた《シャンゴ》で、シャンゴ風スパゲティーなるものを少量(といっても150)食べる。
 豚カツを乗せたスパゲティーの上にミートソース掛け。
 このミートソースがちょっと甘く、味噌とトンカツソースをブレンドしたような味。
 なかなか旨い。なんとなく名古屋だなァ。東京でも受けそう。

駅周辺や駅ナカも含め、歩きまわってみてはっきり感じたのが、高崎では人間が元気だ、ということ。
見えないが、しっかり張り切ったエネルギーが人のまわりに出ている。
これなのか、東京に欠けているのは。
地方から来た人がよく、東京の人間たちは死んでいる感じがする、と評する。
この差を感じてのことなんだナ。

0 件のコメント:

コメントを投稿