2015年5月3日日曜日

シルバーシート



  JR山手線に乗り込むと、たいして混んでもいなかったが、座席はいっぱいになっている。シルバーシートにひとつ座れるところがあったので、そこに腰を下した。両隣に老人、向かいの席には老人と若者ふたりが座っている。
私はといえば、まァ、まだ、老人とまでは言いづらい。
 スマホでちょっと確認したい情報があったのだが、シルバーシートなので控えることにした。
 だが、両隣の老人たちは、ふたりともスマホを見ている。シルバーシートは、老人だけに特化された席ではなく、他の障害のある人たちの優先席でもあるから、堂々とスマホはまずいだろう、とこちらは臆病な気づかいをする。老人はふたりとも堂々たるものである。もし私が心臓にペースメーカーでも入れていたらどうするのか。ペースメーカーには、じつはスマホの電磁波はそう影響がない、という研究結果も見たことがあるものの、科学的研究の常として、それを覆す研究結果もまたすぐに出てくるかもしれない。だいたい、車掌が車内を通るたび、「シルバーシートでの携帯電話、スマートホンのご使用はご遠慮ください」といまだに告げて回っている。
 向かい側の座席の老人は、携帯電話でなにかしゃべっている最中だ。大阪人ではないらしく、そう大きな声ではしゃべっていないので、気触りでもないが、それでも堂々としたものだ。
 若者ふたりはゲームに夢中になっている。ひとりはゲーム機、もうひとりはスマホでやっていて、おそらく、スマホのゲームのほうは通信しながらのゲームだろう。ゲーム機のほうだって、いろいろな場合があるので、通信中かもしれない。
 これが今、まさに今のニッポンである。電車会社側が要請する携帯電話やスマートホン使用制限もどこまで科学的か怪しいものではあるが、少なくとも、今の時点で、使用を控えてほしいと頼んでいるシルバーシートに座って、堂々とシルバーな老人たちがスマホを見、携帯電話でしゃべっている。ゲームをしている若者たちなど、まだ可愛いものである。
 私はべつに、腹立たしいとか、嘆かわしいとかと表明したいわけではない。人間なんて、こんなものであろう。水はつねに低きに流れる。低きに流れて本当に困る場合には、社会はおのずと厳しい措置を採るだろう。しかし、この程度なら流れてもいいだろうというものについては、適当に済ましておく。これはいつの時代にも、人間界で生きる上での極意である。どうせ、最良のかたちにはならない。こちらの思い通りにはならない。ならば、労力の無駄づかいはしまい。いい加減に放っておく。生きる上での常識と言っていい。
 幸い、私はペースメーカーも入れていないし、なにかの用あって過敏すぎる爆発物を携帯しているというわけでもない。ということで、今回は、周囲の老人や若者たちが電子通信機器を使いまくっていても、どうでもよろしい。臨機応変。あたしの知ったこっちゃァ、ござンせん、で済む。
 もちろん、自分に障害があれば黙ってはいないだろう。ギャアギャアわめく。臨機応変なのである。

 こんなケースと比べて、もっと本当にムカつきかねないのが、車内がガラガラなのにもかかわらず、こちらが座っているシルバーシートの前に立ち続けて、わざとらしく座らないでいる若者である。
 ふつうの席もガラガラ、シルバーシートもガラガラ、たまたま乗り込んだドアからいちばん近いシルバーシートに座ってみただけという私のすぐ前に、次の駅から乗り込んできて、これ見よがしに、わざわざ立ち続けるような若者がいるのだ。
向かい側の席には誰も座っていないし、あちらのふつうの席にもふたりぐらいしか座っていない。なにを好んで、私のすぐ前に立っているのか。そう思って、顔を見ると、時々こちらを見下ろして、『こいつ、老人でもないのに、なんでシルバーシートに座ってやがるんだ?』といった目を向ける。
そこまで若者は考えていないかもしれないが、そんなことをこちらに思わせる目や顔つきで、鬱陶しいやつだ、はやく向こうに行って坐りやがれ、と思う。存在が邪魔なんだよ、おまえ、と思いは募る。
まぁ、すでに人生経験も短くないものだから、思いは自分そのものでなく、かなりの部分が単なる自動運動である、とさんざん叩き込まれてきているので、こんな思いにたぶらかされて行動したりはしないし、感情を動かしたりもしない。
だが、この若者はなにを好き好んで、私の前にこんなふうに立ち続けているのだろう、との思いは、やはり続く。ガラガラの電車の中でも立ち続けようとする自分を確かめたくて、しかも、それを他人の目にも印象づけたくて、わざわざ見知らぬ他人の前でこんなふうに立ってみているのだろうか。若者にはありがちな奇行のひとつというべきだが、これはやはり、精神異常のひとつと見なして、ひとつ研究でもしてみるべき材料かな、などと、さらに思いは続く。
もちろん、この若者とともに寄せ来たテーマは、このあたりで思いの中で薄まり始め、まァ、こういう人もいるものだとか、人間はそもそもこんなものじゃないのかなどと、収束方面に動き出す。ヘンな人物たちだけで作り上げられているドストエフスキーの世界などをうまいぐあいに思い出したりすれば、若者への不審もムカつきも、もうさっぱりと消えてしまう。小説だの演劇だの映画だののフィクション世界にたっぷり触れておくと、こんな効用もあるというわけではある。
ここまでこちらの気持ちがほぐれれば、立ち続けていた若者がこちらより先にどこかの駅で降りてしまったりした時、きみ、よく頑張って立っていたなァ、と思いながら、ホームを歩いて行く姿を追ってみたりすることもある。若さから来るツッパリや見せつけは年長者には鬱陶しく見えるが、考えてみれば、それらを見せつけられるのも、そう悪いものでもない。こちらにはもう、すっかりなくなってしまった過剰なもの。あゝ、若さというものに触れたな、と思う。
川端康成の『古都』に、祇園ばやしの聞こえる晩、めずらしく来客があって、主人公の千恵子と同じ床を特別に母がとる場面がある。捨て子だった千恵子にとっては育ての母で、やさしく、よくしてくれているが、千恵子は心の中で、感謝とともに、血の繋がっていないことの隔てを思っている。
その育ての母が、その夜だけは千恵子とともに寝る。敷いておいた千恵子の布団に横になった母は、
「ええ匂いがするわ。若いひとやな」
と明るく言うのだが、こんな気づきの喜ばしさも、若さを失ってこそ、ようやく素直に認めうるものかもしれない。
若さから来るツッパリも見せつけも、また、過ちも不器用さも、すでにその頃あいを過ぎた者には、時分の花ともいうべき若さの匂いの一部である。



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