2015年5月24日日曜日

頭の臭い



 シャンプーもリンスも使わずに洗髪するようになってから、じぶんの髪と頭皮の臭いがはっきりわかるようになった。
毎日洗っていても、臭う。シャワーで湯をかけながら髪や頭皮を揉むと、臭いが溶け出すのか、湯に流れ出して鼻に届く。その臭いがしなくなるまで、洗う。
悪臭というほどではないが、他人には嗅がせたくないと感じる。じぶんより若い人からは、加齢臭だの世代臭だのとも言われかねないだろう。この臭いを落してから勤めには出たいので、毎朝頭を洗う。

老いて衰弱したら、どうなるのだろう。
老人たちや病人たちの扱われ方を聞くと、病院や施設では週に2回ほど,多くても3回ほどの入浴らしい。不衛生とは言えまい。しかし、彼らの肌は臭い、頭も臭うだろう。きれい好きで通してきた人たちには、たった一日二日のじぶんの体臭も辛く感じるかもしれない。看護師やヘルパーに対して、気持ちがいくらか挫けたりするかもしれない。
じぶんの体を洗う体力がなくなったら、臭うことに慣れていくのか、諦めるのか。
じぶんの臭いに気づかない場合もあろう。老人臭や病人臭を漂わせながら、過去の自慢を看護師にしたり、人生訓めいたことをヘルパーに話したりするかもしれない。看護師やヘルパーは、こんな臭いを発している人が…と思いながら、それを聞くかもしれない。

きれい好きで身だしなみに気を使って生きてきた友が急に末期ガンを宣告され、その治療や介護などの諸々の世話に忙しかった数年、抱き起したり、なにかの必要から体に近づいたりした時、数日洗っていない頭部が臭うことがあった。
美人であり、清潔だったこの人の30年間を見続けてきていた。強く、しっかりした生活者で、働き者で、おしゃれで、私こそいつも頼りにしていたほどだった。
あゝ、この人でさえ臭うのか、と思い、哀れだった。

ひとりの例外もなく、誰もが終いには衰弱していき、じぶんの体はもちろん、場合によっては意識さえ思い通りにならなくなっていく。そんなこの世にあって、すべては結局絶望的である、と思うか、それとも、結局、外見も体裁もどうでもいいのだ、と思うか…
こんなことを考えると、やはり、後者のような思いを我がものとする方向に向かう他なかろうと思う。見栄えや社会的な価値観を旨とする生き方は、心身の衰弱とともに否応なしに棄てていく他ないのではないか。
しかし、そうだとすると、見栄えや浮薄な社会的価値観に大きく左右され続ける普通の生や日常とはなにか。そこでの人間性だの、常識だの、正常だのとはなにか…

介護の際は頭の臭うことがあったものの、この友がとうとう亡くなった際には、緊急治療室のベッドに体を抱いて額や頬にキスをした時も、棺桶の中の顔に最後のキスをした時も、気になるような臭いはしなかった。
看護師や葬儀社の人がきれいに顔や頭を拭いてくれたからかもしれない。
最期にあたっては、臭わなくてよかったね。
心の中で、私は、死者にそう語りかけていた。

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